IP Case
特許法・実用新案法 関連判決
平成28年(行ケ)第10154号

マキサカルシトール中間体事件

誤記の訂正
管轄:
知財高裁
判決日:
平成29年5月30日
事件番号:
平成28年(行ケ)第10154号
キーワード:
誤記の訂正

第1 事案の概要


1.特許庁における手続の経緯


原告は,発明の名称を「マキサカルシトール中間体およびその製造方法」とする特許(特許第5563324号。以下「本件特許」といい、本件特許の請求項1~7に係る発明をまとめて「本件発明」といい,本件特許の明細書及び図面を「本件明細書」という。)の特許権者である。
原告は,明細書の訂正を求めて訂正審判請求(訂正2015-390128号。以下「本件訂正」という。)をしたが,特許庁は,「本件審判の請求は,成り立たない。」との審決をし,その謄本は原告に送達された。

2.本件訂正の訂正事項


本件明細書【0034】の「EAC(酢酸エチル,804ml,7.28mol)」という記載を「EAC(アクリル酸エチル,804ml,7.28mol)」という記載に訂正する(以下「本件訂正事項」という。)。

第2 裁判所の判断


1.本件発明について


本件発明は,①マキサカルシトールの合成に用いるための式(Ⅰ)又は式(Ⅱ)で表されるキラル化合物,②式(Ⅰ)で表される化合物(2)を金属ハイドライドで還元して式(Ⅱ)で表される化合物(3)を得る工程を含むマキサカルシトール中間体の製造方法,③化合物(2)を,既知の化合物(1)を,金属酸化物及び有機溶媒の存在下,酸素で酸化することによって合成する方法などから成る。

なお,本件訂正に係る【0034】([合成例4],【化14】)は,化合物(3)からの化合物(4)の合成に関する記載であり,本件発明を構成する部分ではない。


2.取消事由1(目的要件の判断の誤り)について



  1. 特許法126条1項2号は,「誤記・・・の訂正」を目的とする場合には,願書に添付した明細書,特許請求の範囲又は図面の訂正をすることを認めているが,ここで「誤記」というためには,訂正前の記載が誤りで訂正後の記載が正しいことが,当該明細書,特許請求の範囲若しくは図面の記載又は当業者の技術常識などから明らかで,当業者であればそのことに気付いて訂正後の趣旨に理解するのが当然であるという場合でなければならないものと解される。

  2. ア そこで,まず,本件明細書に接した当業者が,明細書の記載は原則として正しい記載であることを前提として,本件訂正前の本件明細書の記載に何らかの誤記があることに気付くかどうかを検討する。

    1. ・・・本件明細書の【0034】の【化14】に接した当業者は,①ヒドロキシ基を有する不斉炭素(20位の炭素原子)の立体化学が維持されていることから,【化14】の反応は,酸素原子が反応剤の炭素原子を求核攻撃することによる,20位の炭素原子に結合した-OH基の酸素原子と反応剤の炭素原子との反応であること,②上記-OH基の酸素原子が酢酸エチルの炭素原子を求核攻撃しても,化合物(4)の側鎖である,-OCHCHCOOCの構造とはならないこと(炭素数が1つ足りないこと)に気付き,これらを考え合わせると,【0034】の「化合物(3)に酢酸エチルを作用させて化合物(4)を得た」という反応には矛盾があることに気付くものということができる。

    2. したがって,本件明細書に接した当業者は,【0034】の【化14】(化合物(3)から化合物(4)を製造する工程)において,側鎖を構成する炭素原子数の不整合によって,【0034】に何らかの誤記があることに気付くものと認められる。


    イ 被告は,[合成例4]の記載内容と【化14】のスキームの表示とは,一見して不一致となる記載がなく,また,「EAC」は酢酸エチルの略称として使用されるものであることから,「EAC(酢酸エチル,804ml,7.28mol)」という記載自体に不自然な点はなく,したがって,・・・本件明細書における訂正前の記載に一見して何らかの誤記があることに気付くとはいえないと主張する。
    しかしながら,前記アのとおり,当業者であれば,・・・【化14】の工程(すなわち,化合物(3)の化学構造,「酢酸エチル」,化合物(4)の化学構造のいずれか)に何らかの誤記があることに気付くものと認められるから,被告の主張は理由がない。

  3. ア 次に,特定の反応工程(【0034】の【化14】)における技術的矛盾と,それに伴う誤記の存在を認識した当業者が,当該反応工程のうち,誤記が「EAC(酢酸エチル)」であると分かるかどうかについて,検討する。

    1. マキサカルシトールの合成方法は,マキサカルシトール側鎖を有する中間体化合物を得るための工程(前半の工程)と,マキサカルシトール側鎖を有する中間体化合物から,最終生成物であるマキサカルシトールを得るための工程(後半の工程)に分けられる。

    2. ここで,化合物(2)は,本件発明の特許請求の範囲に記載された化合物であり,特許請求の範囲及び本件明細書における複数箇所の化学構造の記載は一致しており,これが誤りであると疑うべき事情は認められない上,・・・化合物(2)を出発物質として,[合成例3]記載の反応物質,反応条件により,本件明細書記載の化学構造を有する化合物(3)が得られることに技術的な矛盾は認められない。
      加えて,化合物(3)は,本件発明の特許請求の範囲に記載された化合物である上,特許請求の範囲及び本件明細書における複数箇所の化学構造の記載は一致している。
      そうすると,本件明細書に接した当業者にとって,化合物(3)の構造式,特に20位の炭素原子に-OH基が結合した構造に誤りがあるとする理由は見当たらない。

    3. マキサカルシトール側鎖を有する化合物(5)を起点とする後半の工程は,・・・公知の反応であり,[合成例5]で化合物(5)を合成する段階でマキサカルシトール側鎖の導入が終わっているものと把握できるから,・・・少なくとも化合物(5)の化学構造(あるいは,マキサカルシトール側鎖部分)は,正しいものと考えられる。

    4. そして,仮に化合物(4)の側鎖部分(-OCHCHCOOC)が他の構造であり,酢酸エチルであるEACとの反応により,化合物(4)とは炭素数が異なる(炭素数が1少ない)側鎖が結合する反応が起こったとすれば,・・・マキサカルシトール側鎖を導入して化合物(5)を得るためには,[合成例5]に相当する変換工程の数が本件明細書図1に示された合成スキームよりも必然的に多くなってしまうであろうことが容易に予想され,化合物(4)の側鎖の構造式にも誤りがあるとは考えられない。

    5. 【化14】の出発物質である化合物(3)の化学構造,反応剤である「EAC(酢酸エチル)」,生成される化合物(4)の化学構造のうちいずれかの記載に誤記があることに気付いた当業者にとって,「(酢酸エチル,804ml,7.28mol)」という記載に示された化学物質名と,体積と,モル数とが整合しているかどうかを確認することは容易であるところ,酢酸エチル804mlは,8.21molであることが確認でき,本件明細書に記載されているモル数と整合していないことが理解できる

    6. 本件明細書に接した当業者は,前記(ア)~(オ)において検討したとおり,化合物(3)及び化合物(4)の化学構造については正しいものと理解し,「酢酸エチル」が誤記であると理解するものということができる。


    イ 被告は,スキームは,化学反応の概要を示したものにすぎないから,【化14】のスキームに全ての反応工程及び関与成分が記載されているとは限らないし,反応剤を書き漏らしたことも当然あり得るのであるから,化合物(3)及び化合物(4)の化学構造が正しいからといって,酢酸エチルが当然に誤記となるわけではないと主張する。

    しかしながら,本件発明は,マキサカルシトールの合成に関する新規の中間体及びその製造方法に係るものであるから,本件明細書には,・・・既知の化合物(1)から最終生成物であるマキサカルシトールが得られることが追試可能な程度に記載されるのが通常であるといえ,本件明細書の[合成例4]以外の合成例の記載内容等に照らしても,[合成例4]の記載に接した当業者において,反応剤や他の反応工程や関与成分が記載されていないものと理解するものとはいえない。

    被告の主張は,一般論として存在する抽象的な可能性をいうものであって,本件明細書に妥当するものということはできないから,採用することはできない。

  4. ア 次に,【0034】の「酢酸エチル」の記載が誤記であることに気付いた当業者が,正しい記載が「アクリル酸エチル」であると分かるかどうかについて,検討する。

    1. 「アクリル酸エチル」は,英語で表記すると,「Ethyl Acrylate」であり,「EAC」と略称されることがあるものと認められる。

    2. ・・・化合物(4)の化学構造から,当業者は,【化14】の反応は,化合物(3)のアルコール性水酸基-OHの酸素の非共有電子対が反応剤(EAC)中のカルボニル基を構成する炭素原子の二つ隣の炭素原子を求核攻撃する,①3位に脱離基を有するプロピオン酸エチル(L-CHCHCOOC,ただし,Lは脱離基)を反応剤とする置換反応,又は,②アクリル酸エチルを反応剤とする付加反応のいずれかであると理解する。
      そして,【0034】の反応機構から,正しい反応剤が①3位に脱離基を有するプロピオン酸エチル,又は②アクリル酸エチルに限定されることを理解した場合に,これらの反応剤の体積及びモル数が「804ml,7.28mol」という記載に整合するかどうかを検証してみると,アクリル酸エチルの方が,本件明細書記載の上記数値に整合することが理解できる。

    3. 以上のとおり,「EAC」は,「アクリル酸エチル」の英語表記と整合し,略称と一致するものである上,モル数の記載とも整合するのであるから,当業者は,正しい反応剤が「アクリル酸エチル」であることを理解することができるというべきである。


    1. 被告は,・・・明細書に記載のない反応機構を検討して反応剤を推定して,初めて明細書の記載からプロピオン酸エチル又はアクリル酸エチルと理解できるというのであれば,二つの選択肢に限定することに関しても,正しい記載が一義的に理解できることにならないと主張する。
      しかしながら,明細書に接した当業者は,出願当時の技術常識を踏まえて明細書の記載を理解するのであるから,明細書に直接記載のない事項であっても,当業者は,技術常識を参酌して,当該明細書に記載された技術的事項及びそれらの記載から自明な事項の内容を理解することができるというべきである。そして,本件明細書に接した当業者が,本件出願日当時の技術常識を踏まえて,【化14】において化合物(3)と反応する反応剤は,①3位に脱離基を有するプロピオン酸エチル又は②アクリル酸エチルのいずれかであると理解することは,前記ア(イ)のとおりである。

    2. 被告は,・・・体積やモル数にも誤記が存在していたかもしれず,・・・体積やモル数に誤記がないという前提の下に選択肢を限定した上で,一番近い化合物であるはずであるという結論自体,正しい記載が一義的にアクリル酸エチルに決まることを説明しているとはいえないと主張する。
      しかしながら,・・・本件明細書における反応剤の体積やモル数については,それが誤りであると疑うべき事情は認められないから,それを一応正しいものとして反応剤の体積やモル数の計算を行うことは,通常の合成を行う上で必要な行為であり,それによって容易に整合性を確認できるものと認められる。したがって,被告の主張は,理由がない。


  5. 以上によると,本件明細書に接した当業者であれば,本件訂正事項に係る【0034】の「EAC(酢酸エチル,804ml,7.28mol)」という記載が誤りであることに気付いて,これを「EAC(アクリル酸エチル,804ml,7.28mol)」の趣旨に理解するのが当然であるということができる。
    したがって,本件訂正は,特許法126条1項2号所定の「誤記・・・の訂正」を目的とするものということができる。取消事由1は,理由がある。


3.取消事由2(新規事項追加の判断の誤り)について


前記2.の取消事由1で判断したとおり,・・・本件訂正後の記載である「アクリル酸エチル」は,本件訂正前の当初明細書等の記載から自明な事項として定まるものであるということができ,本件訂正によって新たな技術的事項が導入されたとは認められない。

したがって,本件訂正は,特許法126条5項に規定する要件に適合するものということができる。取消事由2は,理由がある。

第3 結論


以上によると,取消事由1及び2は,いずれも理由があり,審決にはその結論に影響を及ぼす違法があるから,原告の請求を認容することとする。


2019年7月23日
エスエス国際特許事務所

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