IP Case
特許法・実用新案法 関連判決
平成27年(行ケ)第10216号

除染方法事件

語訳の訂正、特許請求の範囲を変更する訂正
管轄:
知財高裁
判決日:
平成28年8月29日
事件番号:
平成27年(行ケ)第10216号
キーワード:
語訳の訂正、特許請求の範囲を変更する訂正

第1 事案の概要


本件は,訂正審判請求に対する不成立審決の取消訴訟である。争点は,誤訳の訂正についての特許請求の範囲の実質的変更の有無である。

1 特許庁における手続の経緯


原告は,発明の名称を「放射能で汚染された表面の除染方法」とする特許(特許第5584706号。以下「本件特許」という。)の特許権者である。原告は,特許請求の範囲及び明細書の訂正を求めて訂正審判請求(以下「本件訂正」という。)をしたところ,特許庁は,「本件審判の請求は,成り立たない。」との審決をした。

2 特許請求の範囲



  1. 本件訂正前
    本件特許の特許公報(以下「本件公報」という。)には,特許請求の範囲の請求項1として,以下の記載がある(以下,同請求項記載の発明を「本件発明」という。)。
    「【請求項1】
    -第1の処理ステップで,部品材料の腐食によりこの部品上に生じた酸化物層を,
    除染用の有機酸を含んだ第1の水溶性の処理溶液で剥離し,
    -これに続く第2の処理ステップで,少なくとも部分的に酸化物層が取り除かれた表面を,この表面に付着している粒子を除去するための作用成分を含んだ第2の水溶性の処理溶液で,処理する原子力発電所の冷却系統の構成部品の表面の化学的な除染方法であって,
    前記作用成分がスルホン酸,燐酸,カルボン酸及びこれらの酸の塩からなる群から選ばれる少なくとも1つのアニオン界面活性剤で形成されている除染方法において,前記第2の水溶性の処理溶液が,遅くとも前記第2の処理ステップの終了する前に,イオン交換器に導かれることを特徴とする除染方法。」

  2. 本件訂正後
    本件訂正に係る特許請求の範囲には,以下の記載がある(下線部は訂正箇所。)
    「【請求項1】
    -第1の処理ステップで,部品材料の腐食によりこの部品上に生じた酸化物層を,
    除染用の有機酸を含んだ第1の水性の処理溶液で剥離し,
    -これに続く第2の処理ステップで,少なくとも部分的に酸化物層が取り除かれた表面を,この表面に付着している粒子を除去するための作用成分を含んだ第2の水性の処理溶液で,処理する原子力発電所の冷却系統の構成部品の表面の化学的な除染方法であって,
    前記作用成分がスルホン酸,ホスホン酸,カルボン酸及びこれらの酸の塩からなる群から選ばれる少なくとも1つのアニオン界面活性剤で形成されている除染方法において,前記第2の水性の処理溶液が,遅くとも前記第2の処理ステップの終了する前に,イオン交換器に導かれることを特徴とする除染方法。」


3 本件訂正の要点


本件訂正の訂正事項1ないし24のうち,審決が本件訂正を不成立とした理由に係る訂正事項は,次のとおりである。すなわち,本件訂正の訂正事項1は,特許請求の範囲の請求項1の「燐酸」を「ホスホン酸」に訂正することを含むもの・・・である(以下,これらを総称して「本件訂正事項(燐酸→ホスホン酸)」という。)。

4 審決の理由の要点


本件訂正事項(燐酸→ホスホン酸)は,いずれも「燐酸」ないし「リン酸」の記載個所に対応する原文の記載個所には「Phosphonsäure」と記載されており,その日本語訳は「ホスホン酸」であるから,特許法126条1項2号に規定する「誤訳の訂正」を目的とするものであるが,特許請求の範囲の請求項1における構成の一つである「燐酸」を異なる物質である「ホスホン酸」に訂正することは,上記請求項1の発明特定事項を変更するものであり,特許請求の範囲を実質的に変更するものであって,126条6項に規定する要件に違反するものである。したがって,本件訂正は認められない。

第2 裁判所の判断


1 原告主張の審決取消事由について



  1. 請求項1の記載について
    ア 本件発明は,「原子力発電所の冷却系統の構成部品の表面の化学的な除染方法」であって,「第2の処理ステップで,少なくとも部分的に酸化物層が取り除かれた表面を,この表面に付着している粒子を除去するための作用成分を含んだ第2の水溶性の処理溶液で,処理する」際に,「前記作用成分がスルホン酸,燐酸,カルボン酸及びこれらの塩からなる群から選ばれる少なくとも1つのアニオン界面活性剤で形成されている」ものと限定されており,本件訂正の訂正事項1に含まれる請求項1の「燐酸」は,スルホン酸,カルボン酸と並んで,第2の処理溶液の作用成分を形成するアニオン界面活性剤の一つとして記載されている。
    イ このように,請求項1の「燐酸」という記載は,本件発明の構成に欠くことができない事項の一つであるところ,その記載自体は極めて明瞭で,明細書の記載等を参酌しなければ理解し得ない性質のものではないし,燐酸塩がアニオン界面活性剤であることは技術常識であると認められるから,請求項1全体を見ても「燐酸」という記載にはその位置付けも含めて格別不自然な点は見当たらない。

  2. 本件訂正前の明細書の記載について
    本件訂正前の明細書には,化学式が記載されているところ,燐酸の化学式は「HPO」(リン原子Pと結合する酸素原子Oは4個)であり,ホスホン酸の化学式は「ROP(OH)」(リン原子Pと結合する酸素原子Oは3個)である。そして,本件訂正前の明細書において,燐酸を指すものとして記載された化学式は,6か所にわたり記載されているが(【0020】,【0023】,【0024】),これらはいずれも燐酸の化学式ではなく,ホスホン酸の化学式である。

  3. 原告の主張について
    原告は,前記(2)によれば,本件公報に接した当業者は,「燐酸(又はリン酸)」と「ホスホン酸」のいずれかが誤りであることを予測することができたとした上で,原文明細書等を参照すれば,ホスホン酸を示す記載はあるが,燐酸を示す記載はないから,当業者は,訂正前の「燐酸(又はリン酸)」が「ホスホン酸」の誤訳であることを認識することができた旨主張する。

    しかしながら,126条6項の要件適合性の判断に当たり,原文明細書等の記載を参酌することはできないから,原告の主張は採用できない。

    すなわち,同項は,第三者に不測の不利益が生じることを防止する観点から,訂正前の特許請求の範囲には含まれないこととされた発明が訂正後の特許請求の範囲に含まれるという事態が生じないことを担保するために,訂正後の特許請求の範囲が訂正前の特許請求の範囲を実質上拡張又は変更したものとなることを禁止したものである。そして,特許権が設定登録により発生すると,願書に添付した明細書及び特許請求の範囲に記載した事項並びに図面の内容が特許公報に掲載されて,第三者に公示され,第三者が利害関係を有する特許権の禁止権の範囲である特許発明の技術的範囲は,この願書に添付した特許請求の範囲に基づいて定められ,その用語の意義はこの願書に添付した明細書及び図面を考慮して解釈するものとされている(70条1項,2項)。ところで,本件特許のような外国語特許出願においては,・・・翻訳文明細書等及び国際出願日における図面(図面の中の説明を除く。)(以下「国際出願図面」という。)が36条2項の願書に添付した明細書,特許請求の範囲及び図面とみなされる(184条の6第2項)。このように,本件特許のような外国語特許出願においては,特許発明の技術的範囲は,翻訳文明細書等及び国際出願図面を参酌して定められ,原文明細書等は参酌されないから,126条6項の要件適合性の判断に当たっても,翻訳文明細書等及び国際出願図面を基礎に行うべきであり,原文明細書等を参酌することはできないというべきである。原告の主張するように,同項の要件適合性の判断に当たり原文明細書等を参酌することができると解した場合には,誤訳の訂正の許否は原文明細書等を参酌しないと決することができないことになるから,訂正審決の遡及効(128条)を受ける第三者としては,我が国の特許庁によって公開されるものではなく,外国語により記載された原文明細書等を,翻訳費用や誤訳の危険を自ら負担して参照することを余儀なくされることになるが,このような解釈が第三者に過度の負担を課すものであって不当であることは明らかである。

    これに対して,原告は,原文明細書等は126条1項2号の要件適合性の判断に使用される資料であり,同条1項と同条6項の条文の配置からすると,同条6項は訂正目的に応じて判断基準が異なることを当然の前提としており,原文明細書等を同項の要件適合性の判断に使用することができる旨主張する。しかしながら,同条1項2号の要件適合性と同条6項の要件適合性とは別個の訂正要件についての判断であるから,その要件適合性の判断に当たり参酌できる資料の範囲についてもそれぞれの訂正要件の目的に応じた解釈がされるべきものであり,同条1項2号の要件適合性の判断に当たり参酌できる資料であることは同条6項の要件適合性の判断に当たり参酌できることを基礎付けるものではない。そして,同条6項の要件適合性の判断に当たっては,同項の趣旨に照らし,原文明細書等を参酌することができないことは既に説示したとおりである。

    また,原告は,第三者が無効審判請求において原文明細書等を証拠とできることとの均衡や証拠共通の原則,あるいは,審査段階で審査官が記載の不備を発見して拒絶理由通知をした場合との均衡などを主張する。しかしながら,特許権者は自らの責任において誤訳を含む翻訳文明細書等を提出し,その後も誤訳の訂正を目的とする補正を行う機会が与えられていたにもかかわらず,その機会を活かすことなく,誤訳を含んだまま設定登録を受けて,特許権を発生させたのであるから,特許公報に掲載された願書に添付した明細書及び特許請求の範囲に記載した事項並びに図面の内容に基づいて特許発明の技術的範囲を認識する第三者の信頼を保護するために,特許権者が一定の不利益を被ることがあったとしてもやむを得ないものというべきである。原告主張の各事情は,第三者に不測の不利益が生じることを防止することを目的とする126条6項の「特許請求の範囲」を判断するに当たり,第三者が原文明細書等を参酌しないにもかかわらず,これを参酌できるものとする根拠とはならない。

    さらに,原告は,外国語特許出願については,国際公開番号が国内公表の対象になっており,特許掲載公報に原文明細書等が含まれないのは既に公開されているからである旨主張する。しかしながら,外国語特許出願に係る特許においては,特許発明の技術的範囲は,願書に添付した特許請求の範囲とみなされる国際出願日における請求の範囲の翻訳文に基づいて定められ,その用語の意義は願書に添付した明細書及び図面とみなされる国際出願日における明細書及び図面の中の説明の各翻訳文,国際出願図面を考慮して解釈されるのであるから,原文明細書等は第三者が特許発明の技術的範囲を把握するために必要となるものではない。また,原文明細書等は,我が国の特許庁によって公開されるものではなく,外国語により記載されたものであり,第三者がこれを参酌するためには,翻訳費用や誤訳の危険を自ら負担する必要がある。そうすると,たとえ第三者が国際公開番号の開示を受けたとしても,訂正前の特許請求の範囲を把握するために原文明細書等を参酌することが一般的であるということはできない。したがって,国際公開番号が第三者に開示されることは,126条6項の要件適合性の判断に当たり原文明細書等を参酌できるものとする根拠とはならない。


2 結論


以上によれば,本件訂正事項(燐酸→ホスホン酸)は,特許請求の範囲を実質的に変更するものであって,126条6項に規定する要件に違反するものであるとして,本件訂正は認められないと判断した審決に誤りはない。

2017年7月27日公開
エスエス国際特許事務所

判例一覧へ戻る