IP Case
特許法・実用新案法 関連判決
平成23年(行ケ)第10445号

アトルバスタチン水和物事件

実施可能要件、進歩性
管轄:
判決日:
平成24年12月5日
事件番号:
平成23年(行ケ)第10445号
キーワード:
実施可能要件、進歩性

第1事案の概要


本件は,原告が,被告が有する本件特許[特許第3296564号,発明の名称:結晶性の〔R-(R,R)〕-2-(4-フルオロフェニル)-β,δ-ジヒドロキシ-5-(1-メチルエチル)-3-フェニル-4-〔(フェニルアミノ)カルボニル〕-1H-ピロール-1-ヘプタン酸ヘミカルシウム塩(アトルバスタチン)]の請求項1及び2に係る発明(以下,それぞれ「本件発明1」「本件発明2」といい,これらを総称して「本件発明」という。)について,特許無効審判(無効2010-800235号)を請求したところ,特許庁が「本件審判の請求は、成り立たない。」旨の本件審決をしたことから,その取消しを求めた事案である。

第2本件発明の内容


【請求項1】CuKα放射線を使用して2分の粉砕後に測定した、2θ、d-面間隔、および>20%の強度の相対強度によって表示された次のX-線粉末回折パターンを特徴とする結晶性形態Iのアトルバスタチン水和物。



【請求項2】化学シフトを100万部当たりの部数で表示した次の固体状態の13C核磁気共鳴スペクトルを特徴とする結晶性形態Iのアトルバスタチン水和物。


第3本件審決の理由の要旨



  1. 本件審決の理由は,要するに,①本件明細書の発明の詳細な説明の記載は,いわゆる実施可能要件(平成8年6月12日法律第68号による改正前の特許法36条4項)に違反するものではなく,②本件発明は,引用例(特開平3-58967号公報(甲1))に記載された発明及び技術常識に基づいて,当業者が容易に発明をすることができたものということはできない,というものである。

  2. 本件審決が認定した引用例に記載された発明(以下「引用発明」という。)と本件発明との一致点及び相違点は,次のとおりである。
    ア 一致点:本件発明及び引用発明がアトルバスタチンである点

    イ 相違点:本件発明は,それぞれ,結晶形態を特定するためのX-線粉末回折パターン(本件発明1)や13C核磁気共鳴スペクトル(本件発明2)で特定される結晶性形態Ⅰのアトルバスタチン水和物であるのに対し,引用発明のアトルバスタチンはそのような特定がない点


第4裁判所の判断


1.取消事由1(実施可能要件に係る判断の誤り)について



  1. 特許制度は,発明を公開する代償として,一定期間発明者に当該発明の実施につき独占的な権利を付与するものであるから,明細書には,当該発明の技術的内容を一般に開示する内容を記載しなければならない。平成8年6月12日法律第68号による改正前の特許法36条4項が実施可能要件を定める趣旨は,明細書の発明の詳細な説明に,当業者がその実施をすることができる程度に発明の構成等が記載されていない場合には,発明が公開されていないことに帰し,発明者に対して特許法の規定する独占的権利を付与する前提を欠くことになるからであると解される。そして,物の発明における発明の実施とは,その物の生産,使用等をする行為をいうから(特許法2条3項1号),物の発明について上記の実施可能要件を充足するためには,明細書にその物を製造する方法についての具体的な記載が必要であるが,そのような記載がなくても明細書及び図面の記載並びに出願当時の技術常識に基づき当業者がその物を製造することができるのであれば,上記の実施可能要件を満たすということができる。

  2. 本件審決は,本件明細書の方法2の実施可能性についてのみ検討した上で,本件明細書の発明の詳細な説明の記載は,実施可能要件を充足するものとする。
    そこで検討するに,方法2は,補助溶剤を含む水中にアトルバスタチンを懸濁するというごく一般的な結晶化方法であるものの,補助溶剤としてメタノール等を例示し,その含有率が特に好ましくは約5ないし15v/v%であることを特定するのみであり,結晶化に対して一般的に影響を及ぼすpH,スラリー濃度,温度,その他の添加物などの諸因子について具体的な特定を欠くものであるから,これらの諸因子の設定状況によっては,本件明細書において概括的に記載されている方法2に含まれる方法であっても,結晶性形態Iが得られない場合があるものと解される。
    そうだとすると,結晶化に対して特に強く影響を及ぼすpHやスラリー濃度を含め,温度,その他の添加物などの諸因子が一切特定されていない方法2の記載をもってしては,本件明細書等の記載並びに出願当時の技術常識を併せ考慮しても,当業者が過度な負担なしに具体的な条件を決定し,結晶性形態Iを得ることができるものということはできない。

  3. この点に関し,被告は,①当業者であれば,撹拌により懸濁状態を維持するのに適した程度のスラリー濃度を採用することに何ら困難はなく・・・,②方法2において,補助溶剤を使用しないこと自体は,本件明細書に記載された範囲内であるし・・・,③方法2において,撹拌温度は明示的に特定されていないが,温度の規定がなければ,室温付近で行うのが技術常識である,④本件明細書の実施例では,種晶を加えても17時間の撹拌が必要であったから,種晶を加えない場合,その数倍程度の時間が必要であると予測することは合理的であるなどと主張する。
    しかしながら,スラリー濃度は,結晶化の実現に関する重要な因子である以上,物の発明において,当該物の製造方法を開示するに当たり,具体的に記載される必要がある事項というべきところ,方法2については,補助溶剤の種類と好ましい濃度程度しか記載されていないのであるから,当該記載から,結晶性形態Iが得られるスラリー濃度を当業者が見いだすことは困難であるというほかない。
    さらに,本件審決は,方法2に対応する実施例1の方法Bにおいて,撹拌温度が約40℃とされていることから,方法2においても,室温又はその前後において行われたものと理解されるとするが,約40℃という温度について,これを「室温又はその前後」と理解することは困難である。・・・当業者が,撹拌の要否すら特定していない本件明細書の方法2に係る記載をもって,そのほかの諸因子との相関関係において決定されるべき最適な撹拌温度を過度の負担なしに設定することができるものということはできない。
    加えて,結晶化に要する撹拌時間は,pH,スラリー濃度,温度,その他の添加物などの諸因子によって異なるものであるから,本件明細書に特定の条件下における撹拌時間が開示されていたとしても,当業者が方法2における撹拌時間を合理的に予測することができるとまでいうことはできない。

  4. 以上のとおり,本件明細書における方法2に係る記載は,結晶性形態Iを得るための諸因子の設定について当業者に過度の負担を強いるものというべきであって,実施可能要件を満たすものということはできない。
    もっとも,本件明細書には,本件審決が判断した方法2のほかにも,方法1及び3として,結晶性形態Iの具体的製造方法が開示されているところ,本件審決は,本件明細書の方法2について検討するのみで,本件明細書のその余の記載により実施可能要件を充足するか否かについて審理を尽くしていないものというほかない。
    よって,実施可能要件について更に審理を尽くさせるために,本件審決を取り消すのが相当である。


2.取消事由2(本件発明の容易想到性に係る判断の誤り)について



  1. 本件審決の引用発明の認定の当否
    本件審決は,引用例の実施例10における「再結晶」の用語は「再沈殿」又は「再析出」の誤用であり,引用例に記載された発明において,アトルバスタチンの結晶が得られていないと認定した。・・・中略・・・
    しかしながら、引用例における「再結晶」の用語が,「再沈殿」又は「再析出」の誤用であると認めることはできず,引用例に記載された発明において得られたアトルバスタチンが結晶形態であると認定しなかった本件審決の認定は誤りである。

  2. 一致点及び相違点について
    前記(1)のとおり,引用例に記載された発明は結晶形態のアトルバスタチンであるというべきであるから,本件発明と引用例に記載された発明の一致点及び相違点は,以下のとおりとなる。
    ア 一致点:本件発明及び引用例に記載された発明が結晶形態のアトルバスタチンである点
    イ 相違点:本件発明は,それぞれ,結晶形態を特定するためのX-線粉末回折パターン(本件発明1)や13C核磁気共鳴スペクトル(本件発明2)で特定される結晶性形態Ⅰのアトルバスタチン水和物であるのに対し,引用例に記載された発明のアトルバスタチンは,結晶形態を有するものの,そのような特定がない点(以下「本件相違点」という。)

  3. 相違点に係る判断の誤りについて
    ア 結晶を得ることの動機付けについて
    本件優先日当時、一般に,医薬化合物については,安定性,純度,扱いやすさ等の観点において結晶性の物質が優れていることから,非結晶性の物質を結晶化することについては強い動機付けがあり,結晶化条件を検討したり,結晶多形を調べることは,当業者がごく普通に行うことであるものと認められる。
    そして,前記のとおり、引用例には,アトルバスタチンを結晶化したことが記載されているから,引用例に開示されたアトルバスタチンの結晶について,当業者が結晶化条件を検討したり,得られた結晶について分析することには,十分な動機付けを認めることができる。
    この点について,被告は,結晶を取得しようとする一般的な意味での動機付けは,具体的な結晶多形に係る発明に想到するための動機付けとは異なるのであって,およそ医薬において結晶の使用が好ましいことに基づいて動機付けを判断すると,結晶多形に係る特許は成立する余地はないと主張する。
    しかしながら,結晶を取得しようとする動機付けに基づいて結晶化条件を検討し,結晶多形を調査することにより,具体的な結晶多形に想到し得るものであるから,具体的な結晶多形を想定した動機付けまでもが常に必要となるものではない。

    イ 水を含む系による再結晶化の示唆について
    本件優先日前から,医薬化合物の結晶として水和物結晶が望まれており,非結晶の物質について,水を含む系から水和物として結晶させることを試みることは,当業者にとって通常なし得ることであったというべきである。
    したがって,引用例に開示されたアトルバスタチンの結晶について,水を含む溶媒を用いた水和物として結晶を得ることを試みることは,当業者がごく普通に行うことであるというべきである。
    また,結晶性形態Iを得るために本件明細書が開示した方法は,水性溶媒中での懸濁物ないし湿潤ケーキを養生するというものであって,当業者が通常採用しないような手法を用いているものではなく,特殊な条件設定が必要であるというものでもないから,本件発明に係る結晶性形態Iは,当業者が通常なし得る範囲の試行錯誤で得られた結果物である水和物結晶にすぎないものというべきである。
    この点について,被告は,水を含む系による再結晶化の事例が存在するとしても,本件発明の特定の結晶形態を取得することが直ちに容易になるわけではないなどと主張する。
    しかしながら,本件明細書が開示した方法は,実施可能要件を充足するか否かはともかくとして,特殊な手法であるとはいえない以上,当業者が通常なし得る範囲の試行錯誤内において当該方法と同様の方法を試み,結晶性形態Ⅰを得ることができるものというべきである。

    ウ 小括
    以上によると,本件発明は,アトルバスタチンの特定の結晶性形態(結晶性形態Ⅰ)に係る発明であるところ,本件相違点に係る構成は,引用例により開示されたアトルバスタチンの結晶について,当業者が通常なし得る範囲の試行錯誤によって得ることができるものというべきであるし,当該結晶性形態の作用効果についても,格別顕著なものとまでいうことはできない。
    したがって,本件発明は,引用例に記載された発明及び技術常識に基づいて,当業者が容易に発明をすることができたものというべきである。


第5結論


以上の次第であるから、本件審決は取消しを免れないものである。
2013年2月6日
エスエス国際特許事務所

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