IP Case
特許法・実用新案法 関連判決
平成22年(ネ)第10038号

タコグラフ用記録紙事件

構成要件充足性
管轄:
判決日:
平成 22 年 10 月 6 日
事件番号:
平成22年(ネ)第10038号
キーワード:
構成要件充足性

第1事案の概要


本件は、「タコグラフ用記録紙」に関する特許2619728号の特許権者である第1審原告(第2審控訴人、以下「原告」)が、第1審被告ら(第2審被控訴人、以下「被告」)が製造販売するタコグラフ用記録紙(以下「本件被告製品」)が当該特許権を侵害すると主張して、被告に対し、特許法100条に基づき、本件被告製品の生産、譲渡等の差止め及び廃棄を求め、民法709条、719条に基づき損害賠償金の支払を求めた事案である。

第2前提となる事実


1.本件特許発明


【請求項1】
下記(A)と(B)の重量比が1から3の範囲の組成物からなる着色原紙の色調を隠蔽する隠蔽層が1から20ミクロンの膜厚で着色原紙の表面に形成され、室温の尖針の記録ペンによって前記着色原紙の色調が現出するものであることを特徴とする、タコグラフ用記録紙。
(A)隠蔽性を有する水性の中空孔ポリマー粒子
(B)成膜性を有する水性ポリマー

2.本件特許発明の構成要件の分説


構成要件a:隠蔽層は着色原紙の色調を隠蔽するものであり、1から20ミクロンの膜厚で着色原紙の表面に形成されたこと。
構成要件b:上記隠蔽層は、(A)隠蔽性を有する水性の中空孔ポリマー粒子(以下「A成分」ともいう。)及び(B)成膜性を有する水性ポリマー(以下「B成分」ともいう。)の組成物からなること。
構成要件c:上記組成物は、A成分とB成分の重量比が1から3の範囲であること。
構成要件d:上記隠蔽層は、室温の尖針の記録ペンによって前記着色原紙の色調が現出するものであること。
構成要件e:前記aないしdを特徴とする、タコグラフ記録紙であること。

3.先行訴訟等の経緯


  1. 無効審判請求
    被告は、4回にわたり、本件特許について無効審判を請求し、そのうち3回は、いずれも、同請求が成り立たないとする審決がされ、取消訴訟の請求棄却判決及び上告棄却により確定した。4回目の無効審判請求(無効2002-35464号事件)において、請求不成立審決を取り消す旨の判決がされ、上告受理申立ても却下されたため、原告は、訂正請求書を提出し、特許庁の訂正拒絶理由通知に対応して、手続補正書を提出した(本件訂正)。特許庁は、本件訂正を認めた上、無効審判請求が成り立たないとする審決をし、その取消訴訟は棄却されて、同審決は確定した。

  2. 第1次侵害訴訟(イ号事件)
    原告は、被告が平成9年1月から平成11年9月14日までの間に製造、販売した被告製品(以下「イ号物件」)が本件特許権を侵害するとして、被告に対し、特許権侵害差止等請求事件(東京地裁平成11年(ワ)第23013号)を提起した(イ号事件)。東京地裁は、イ号物件は本件特許発明(ただし、本件訂正前のもの)の構成要件を充足すると判断し、イ号物件の製造等の差止め及び廃棄請求を認容するとともに、損害賠償として3億6742万円余の支払いを命じる判決を言い渡した。被告の控訴(東京高裁平成13年(ネ)第4146号)は棄却され、上告及び上告受理申立て(最高裁平成15年(オ)第83号、同年(受)第82号)は、棄却決定及び不受理決定により、上記判決が確定した。

  3. 第2次侵害訴訟(ロ号事件)
    被告は、原告に対し、イ号物件を設計変更した被告製品(以下「ロ号物件」)の製造販売につき特許権不侵害確認請求本訴事件(東京地裁平成11年(ワ)第21280号)を提起し、原告が同被告に対し、特許権侵害差止請求反訴事件(同平成12年(ワ)第7516号)を提起した(ロ号事件)。東京地裁は、ロ号物件は本件特許発明(ただし、本件訂正前のもの)の構成要件を充足しないと判断して、本訴請求を認容し、反訴請求を棄却した。原告の控訴(東京高裁平成13年(ネ)第2818号)は棄却され、上記判決は確定した。
    なお、ロ号事件においてロ号物件とされた被告製品は、イ号事件の特許権仮処分異議申立事件(東京地裁平成11年(モ)第12257号)において、被告がイ号物件とは異なる新処方の製品であるとして提出した物件(イ号事件の乙53。以下「乙53物件」という。)である。乙53物件の一部は、ロ号事件の証拠として裁判所に提出され(裁判所保管乙53物件)、残部は、原告が保管している(原告保管乙53物件)。


4.本件被告製品の構成



  1. 本件被告製品(「ロ’号物件」または「ハ号物件」ともいう。)は、隠蔽層が、着色原紙の色調を隠蔽するものであり、着色原紙の表面に形成され、室温の尖針の記録ペンによって前記着色原紙の色調が現出するタコグラフ用記録紙である。

  2. 本件被告製品の隠蔽層は、①スチレン/アクリル酸エステル共重合体、②スチレン/ブタジエン共重合体(SBR)、③スチレン/アクリル酸共重合体、④カゼイン、⑤その他の添加剤成分を成分とする組成物から構成される塗布液を塗布して乾燥させたものである。本件被告製品における隠蔽層の塗布液として配合される具体的な薬品名は、以下のとおりである。
    ①スチレン/アクリル酸エステル共重合体:ローペイクHP-1035
    ②スチレン/ブタジエン共重合体(SBR):ニポールLX407F8B
    ③スチレン/アクリル酸共重合体:ジョンクリル61J
    ④カゼイン:ALACID730
    ⑤その他の添加剤成分:サーフィノール等

  3. 上記成分①は構成要件bのA成分に該当し、成分②はB成分に該当する。成分⑤はA成分、B成分のいずれにも該当しない。なお、成分③及び④がB成分に該当するか否かについては争いがあるものの、構成要件cの充足性の判断に際し、いずれもB成分に該当するものとして検討することにつき当事者間に争いはない。


5.争点


本件における主な争点は以下のとおりである(注:争点1および4については省略した。)。
  1. 構成要件cの「A成分とB成分の重量比(以下「A/B比」ともいう。)」は乾燥後の隠蔽層におけるA/B比か乾燥前の塗布液における固形分のA/B比か(争点2)

  2. 本件被告製品は構成要件cを充足するか(「A/B比が1から3の範囲である」か否か)
    (争点3)


第3当事者の主張


1.争点2について



  1. 原告
    ア 本件明細書の特許請求の範囲の記載から、構成要件cにおける「A/B比」が、塗布液の乾燥後に得られる「隠蔽層」を構成する組成物におけるA成分とB成分の重量比であることは明らかである。また、本件特許発明は、タコグラフ用記録紙という「物」の発明であり、使用方法や製造方法の発明ではないため、塗布液の乾燥後に得られた隠蔽層を有するタコグラフ用記録紙としての「物」を対象にしているのであるから、構成要件cのA/B比に関し、被告が主張するように乾燥前の塗布液を構成する組成物の固形分のA/B比であると解することはできない。
    イ 中空孔ポリマー粒子の供給源であるローペイクHP-1055(以下「ローペイク」という。)のガラス転移温度(約106℃)より低い温度で乾燥した場合には、塗布液を構成する組成物の固形分のA/B比と乾燥後の隠蔽層を構成する組成物のA/B比は同一となるが、被告のように、通常では考えられないガラス転移温度以上の温度(160℃)で乾燥する場合には、ローペイク粒子が成膜化しA成分の一部がB成分に変化することから、塗布液を構成する組成物の固形分のA/B比と乾燥後の隠蔽層を構成する組成物のA/B比が同一となることはない。

  2. 被告
    ア 本件明細書の発明の詳細な説明欄には、「隠蔽性を有する水性の中空孔ポリマー粒子と成膜性を有する水性ポリマーの重量比は1~3であり、両者を混合して得られた塗布液が着色原紙に塗布される。」との記載があり、混合前の塗布液における固形分のA/B比を述べている。本件明細書には塗布液乾燥後の隠蔽層の組成物を何らかの分析方法で測定したA/B比やその測定方法が記載されているわけではない。したがって、構成要件cの「A/B比」は、乾燥前の塗布液を構成する組成物の固形分のA/B比を意味するものと解すべきである。
    イ 構成要件cの「A/B比」は、乾燥前の塗布液を構成する組成物の固形分のA/B比と乾燥後の隠蔽層を構成する組成物のA/B比とは同一であるから、塗布液における固形分の重量比によって充足性を判断すべきである。


2.争点3について



  1. 原告
    ア ATR法による定量分析による本件被告製品の隠蔽層のA/B比
    原告保管乙53物件は、ロ号事件において配合割合は特定されたものの、大まかな成分しか特定されなかったことから、原告は、各種の化学分析により、①~⑤成分の薬品名を特定した。この分析結果は、被告が本件訴訟において開示した薬品名とSBR以外の薬品において実質的に一致していた。
    原告は、原告保管乙53物件の配合薬品を上記のように特定したことから、②SBR、③スチレン/アクリル酸共重合体、④カゼインの各成分における3点検量線を作成して、原告保管乙53物件を標準物質としてATR法により定量分析を行った結果、本件被告製品の隠蔽層のA/B比はいずれも「1から3の範囲」内の数値であった。
    さらに、本件被告製品は、A成分であるローペイク粒子がそのガラス転移温度以上の乾燥温度で加熱されることにより、その粒子の一部が成膜化し、B成分である「成膜性を有する水性ポリマー」に変化することから、A/B比は上記のATR法による分析結果から求めた値よりも小さくなり、構成要件cの「1から3の範囲」により収束することになる。以上より、本件被告製品はいずれも構成要件cを充足する。
    イ 隠蔽層用塗布液の配合薬品の固形分量から求めたA/B比
    本件被告製品の隠蔽層は均一であるから、実機生産品である本件被告製品と加工管理表等に記載の薬品配合割合により調製されたハンドコート試料は、IRの全領域で重ね書きすると一致するはずであるが、現実には全く一致せず、加工管理表等に記載の薬品配合割合にSBR(ニポールLX407F8Bとは異なるSBR)及びカゼインを加えた模擬品(ハンドコート試料及びT社設備による実機生産品)は、IRの全領域で本件被告製品と一致した。したがって、本件被告製品は、加工管理表等に記載の薬品配合割合にSBR及びカゼインを加えた塗布液を使用して製造されたものと認められ、模擬品の配合薬品の固形分量から本件被告製品のA/B比を求めると2.90となり、構成要件cを充足する。
    被告は、実機生産品とハンドコート試料のIRを重ね書きしても一致しないのは、実機生産においてはマイグレーションが生じるなどの原因により隠蔽層が不均一であることを挙げるが、本件被告製品の隠蔽層が均一であることは各種証拠により明らかである。マイグレーションは過酷な製造条件で発生するものであって、被告の製造工程における通常の乾燥条件では発生しないものである。また、被告が使用するSBR(ニポールLX407F8B)はマイグレーションが生じないように開発されたものであり、マイグレーションが発生すると層間剥離強度が低下(バインダー力が悪化)するが、本件被告製品にバインダー力が低下している事実は存在しない。

  2. 被告
    ア ATR法による隠蔽層の組成物の定量分析について
    タコグラフ用記録紙の隠蔽層の特殊性(ばらつき、経時変化、不均一性等)により、本件被告製品の隠蔽層の組成物の定量分析を正確に行うことは困難である。仮に、ATR法によりA/B比の定量が可能であるとしても、原告保管乙53物件のブタジエン基に起因する吸光度比(967cm-1/907cm-1)がロ号製品としては小さすぎるため(本来のロ号物件における薬品配合割合であれば、1.2程度を示すべきところ、原告保管乙53物件は約1.0である。)、原告保管乙53物件を標準物質として作成された検量線によると、ブタジエンを含むSBR(B成分)が実際の値よりも常に大きく算出されてしまう(A/B比が常に小さく算出されてしまう)という根本的な問題点が存在する。このような検量線に基づく定量分析が正しい重量比を示すものではないことは明らかである。

    イ 実機生産品の配合薬品の固形分量からの定量分析について
    原告の主張は、隠蔽層用塗布液の処方が同一であれば実機生産品とハンドコート試料のIRが全領域で一致することを前提としたものであるが、隠蔽層用塗布液の処方が全く同じであっても、実機生産品とハンドコート試料とでは、乾燥温度の違いによるマイグレーション等により隠蔽層における組成分布が異なり不均一な構造となるために吸光度比が異なるものであるから、原告の主張は前提において誤りである。

    ウ ローペイク粒子の成膜化について
    省略(後記「第4裁判所の判断」の2.(6)参照)

    エ 本件被告製品製造時の隠蔽層用塗布液の薬品配合割合からA/B比が3よりも大きいことは明らかであること
    構成要件cの「A/B比」は、隠蔽層用塗布液に配合された各薬品の固形分の重量比から求めるのが最も端的かつ確実な方法であるし、本件明細書及び本件特許の出願経過においても、乾燥後の隠蔽層からA/B比を求める手段は何ら開示されておらず、隠蔽層用塗布液の配合薬品の固形分の重量比からA/B比が求められることが当然の前提となっている。
    本件被告製品製造時の隠蔽層用塗布液の薬品配合割合は、加工管理表等に記載されたとおりであるから、仮に②成分、③成分、④成分のすべてがB成分であるとしても、本件被告製品の隠蔽層用塗布液の配合薬品の固形分のA/B比が3を超えていることは明らかであるから、本件被告製品はいずれも構成要件cを充足しない。


第4裁判所の判断


1.争点2について



  1. 本件明細書の「発明の詳細な説明」の「作用」において、「隠蔽性を有する水性の中空孔ポリマー粒子と成膜性を有する水性ポリマーの重量比が1未満のときは十分な隠蔽性が得られず、しかも室温の記録ペンのペン圧で中空孔ポリマー粒子が潰れ難くなり、記録できない。また重量比が3以上となると実用可能な隠蔽層を形成することができない。」と記載されていることからすると、本件特許発明における構成要件cの技術的意義は、記録紙の状態において隠蔽性と記録性の作用を有することにあると解されること、また、本件特許発明の特許請求の範囲の「重量比が1から3の範囲の組成物からなる着色原紙の色調を隠蔽する隠蔽層」との記載からすると、構成要件cの「A/B比」は、記録紙となった状態、すなわち、塗布液乾燥後の隠蔽層を構成する組成物におけるA/B比を意味すると解するのが相当である。

  2. もっとも、塗布液の固形分は乾燥後もそのまま不揮発分として残るため、通常は、塗布液における固形分のA/B比と塗布液乾燥後の隠蔽層におけるA/B比は一致するものである。したがって、構成要件cの「A/B比」は、必ずしも乾燥後の記録紙の状態で測定する必要はなく、乾燥前の塗布液における固形分のA/B比を測定することによっても構成要件cを充足するかを判断することができるといえる。本件明細書の「発明の詳細な説明」の「実施例」として、塗布液における固形分の重量比による薬品配合割合が記載されていることからすると、本件特許発明においては、塗布液における固形分のA/B比と塗布液乾燥後の隠蔽層におけるA/B比が一致することを当然の前提としており、乾燥の前後でA/B比が変化することを想定していないものといえる。

  3. また、本件被告製品の製造工程における乾燥温度や条件によって、ローペイク粒子が成膜化しA成分からB成分に変化し、塗布液の乾燥の前後でA/B比が変化することを認めるに足りる的確な証拠はない。

  4. したがって、構成要件cの「A/B比」は、塗布液乾燥後の隠蔽層におけるA/B比を意味するものと解すべきであるが、本件被告製品においては、塗布液乾燥後の隠蔽層におけるA/B比は、塗布液における固形分のA/B比と一致するものといえる。そのため、乾燥後の隠蔽層を構成する組成物のA/B比又は乾燥前の塗布液を構成する組成物の固形分のA/B比が1から3の範囲内の場合に、構成要件cを充足することになる。


2.争点3について



  1. 原告の立証方法
    原告は、塗布液乾燥後の隠蔽層を構成する組成物のA/B比が1から3の範囲内であることの立証として、(a)乙53物件を標準物質としてATR法による定量分析を行った。
    他方、被告は、乾燥前の塗布液を構成する配合物の固形分のA/B比が1から3の範囲内ではないとして、本件被告製品の加工管理表等を提出した。
    これに対し、原告は、(b)本件被告製品の隠蔽層のIRと全領域で一致する製品(加工管理表記載の薬品配合割合にSBRとカゼインを追加した模擬品)の塗布液の配合薬品の固形分からA/B比を求めた。
    ロ号事件において、被告はロ号物件の隠蔽層の薬品配合割合(「ロ号処方」)について、下記表のとおりであると主張し、上記(a)の主張では、乙53物件については、被告の主張のとおりの割合であることが前提となっている。また、上記(b)において、ロ’号物件およびハ号物件の加工管理表記載の薬品配合割合(「ロ’号処方」および「ハ号処方」)は、下記表のとおりである。
    ロ号物件ロ’号物件ハ号物件
    ①中空孔ポリマー粒子76.977.977.9
    ②SBR16.515.414.4
    ③スチレン/アクリル酸共重合体2.22.22.2
    ④カゼイン3.33.34.3
    ⑤その他の添加剤1.11.21.2
    (単位:重量%)

  2. ATR法の適否
    ア ATR法の光のもぐり込みの深さと密着性(押し付け力)
    ATR法において、光は界面で反射するのではなく、ある深さ(光のもぐり込みの深さ)だけ試料側に入り込んでから全反射する。そのため、試料表面から光のもぐり込みの深さの情報がスペクトルに反映されることになり、試料が深さ方向で均質でない場合には、ATR法の測定結果が試料全体の組成を反映していないことになる。
    すなわち、ATR法におけるもぐり込みの深さの厚み全体に対する割合は、測定時の膜厚等にもよるが、本件被告製品のようなタコグラフ記録紙の隠蔽層の場合、せいぜい試料の深さ方向の45~60%の情報にすぎない。
    このように、ATR法は、隠蔽層の深さ方向の一部の情報しか反映しない方法であることから、隠蔽層の組成の深さ方向の均一性が問題となる。

    イ 隠蔽層の均一性

    1. 原告は、本件被告製品の隠蔽層が均一であると主張する。
      a 原告は、ハンドコート試料の隠蔽層をATR法により測定した吸光度比と、同一塗布液をシリコンウエハに塗布した試料の隠蔽層を透過法により測定した吸光度比が一致したから、ハンドコート試料の隠蔽層は均一な構造であり、異なるプリズムによる吸光度比も同一であったから、本件被告製品の隠蔽層も均一であると主張する。
      しかしながら、透過法の対象がハンドコート試料であり、それが乾燥条件が異なる本件被告製品の隠蔽層の均一性を直ちに証するものとはいえないし、異なるプリズムによる吸光度比が同一であることをもって、実機生産品の組成分布がハンドコート試料と同一であるとする化学的根拠は見当たらない。その上、上記測定結果は、いずれも同一とはいえないと評価すべきものである。
      また、そもそもATRのスペクトルは透過法のスペクトルと違いがあるところ、両者の測定結果を比較するためのATR補正ソフトを用いて変換し、両者を比較した結果が同一であるとしても、ATR補正はATR法と透過法のデータを一致させるものではなく近づけるためのものであって、ATR補正ソフトのようなアルゴリズムを用いて行われるものであるから、このような補正された測定値はアルゴリズムの影響を受けているのであって、均一性の根拠にはならない

      b 原告は、隠蔽層の深い部分まで測定する1回反射型ATRとごく浅い表面を測定する多重反射型ATRの吸光度比が一致していることからも、隠蔽層が均一であると主張する。しかしながら、隠蔽層の深い部分の測定値とごく浅い表面の測定値とが一致したことは、その測定箇所及び測定範囲において組成が等しいことを示すにすぎず、それのみをもって層全体が均一であることを証するに足りない。

      c 原告は、マイグレーションによりバインダー成分であるSBRが表面側に移動したとすると、本件被告製品の隠蔽層のバインダー力は低下するはずであるが、本件被告製品の隠蔽層のバインダー力低下という事実は存在せず、マイグレーションが発生しないことからも、隠蔽層が均一であると主張し、報告書を提出している。
      しかし、バインダー力が低下するほどではなくても、マイグレーションがある程度発生している可能性を否定することはできない。さらに、上記報告書におけるバインダー力の評価は、印刷適性試験や印字特性試験による、○△×といった観点からの評価であって、定量的な評価がなされていない。たとえ、上記評価が○であったとしても、これをもってマイグレーションが全くないと断ずることはできない。

    2. 他方、被告は、本件被告製品の隠蔽層が不均一であると主張する。
      a 被告の陳述書によれば、押し付け力が40N以上であれば、スチレン由来の各ピークの吸光度比に変化がないにもかかわらず、ブタジエン由来のピーク(967cm-1)はその後の押し付け力の増加に伴い依然として増加している。スチレン由来のピークの吸光度比に変化がないから、密着具合は一定であるが、ATR法によるIR測定時の押し付け力は、本来の目的である密着具合の向上のほか、中空孔ポリマーや粒子間の隙間を潰す役割も果たすことになる。よって、上記のブタジエン由来のピークの変化は、空隙の減少に伴いブタジエン、すなわちSBRだけがIR上増加するものであり、SBRの存在比率が少なくとも隠蔽層の厚さ方向で不均一であることを示していることになる。

      b 被告の実験報告書によれば、隠蔽層の深さ方向の組成分布の検証としてATRプリズム変更により分析したところ、ダイヤモンドで測定すると、吸光度比967cm-1/907cm-1、1660cm-1/1602cm-1共に、ハンドコート試料より実機生産品の方が大きい傾向が見られたのに対し、Ge測定つまりダイヤモンドより浅い領域では、吸光度比1660cm-1/1602cm-1の大小関係はダイヤモンド測定と同じであったが、吸光度比967cm-1/907cm-1はダイヤモンド測定で見られたような差は認められず、Ge測定の967cm-1/907cm-1のみが、実機生産品とハンドコート試料の差がほとんどないことが認められる。このことは、実機生産品もハンドコート試料も、深さ方向に組成分布の差があること、すなわち、均一ではないことを示している。

      c 東京大学准教授E氏も、意見書において、本件被告製品の隠蔽層においてバインダーとして用いられているSBRは、急加熱の乾燥により表面積に集中するバインダーマイグレーションと呼ばれる現象がよく発生することが知られていること、コバインダーとして加えられる水溶性バインダーは、SBRのマイグレーションを促進し、その水溶性バインダー自身もマイグレートすること等を根拠に、本件被告製品の隠蔽層を、実機生産の乾燥条件で乾燥させた場合と、ハンドコートの乾燥条件で乾燥させた場合とで、隠蔽層の各成分の分布に差異が生じる可能性が十分にある、と述べている。

    3. 以上によれば、ATR法においては、隠蔽層の組成が深さ方向で均一であることが求められるにもかかわらず、本件被告製品の隠蔽層が均一であることを認めるに足りない。


    ウ 本件被告製品におけるATR法
    本件被告製品の塗布に用いられる組成物は、共重合物の混合物であり、比重や親水性が異なるSBRの分散粒子とローペイクという、複数の配合物を分散状態で含むものである。特に中空樹脂粒子は、その粒子径が大きく、また、他の材料との比重も異なるから、分散性が悪く、全体としてA/B比を調整しても、ロットや測定場所等の違いによって、A/B比に違いが出てくる可能性がある。
    仮に、配合物の状態では均一に分散していたとしても、塗布液が塗布された後、塗布層内において、マイグレーション等の原因で、乾燥の過程で材料が偏在する可能性がある。本件被告製品と模擬品は、乾燥条件が全く同じとはいえないから、得られる隠蔽層の均一性(不均一の程度)に違いがある可能性も否定できない。
    また、隠蔽層の断面写真によれば、コート層を乾燥した後に、層内に空隙が残存しており、この空隙は乾燥条件によりでき方が変化すると解される。したがって、このことからも、層の均一性(特に深さ方向)があるとはいえない。そして、層の深さ方向で均一でなければ、ATR法によって、層の表面のみを測定しても、層全体のA/B比を知ることはできない

    エ 以上によれば、一般的にIRスペクトルが物質の同一性確認に有用であるとしても、本件被告製品の隠蔽層のように均一性のない物質において、同様にあてはまるものではなく、本件被告製品の隠蔽層をATR法により定量的に測定することは適切とはいえないというべきである。

  3. 模擬品を本件被告製品と同視できるか
    ア 原告は、(b-1)ハンドコート試料のIRと本件被告製品のIRとがATR法で一致せず、他方、(b-2)加工管理表記載の薬品配合割合にSBRとカゼインを加えた模擬品のIRと本件被告製品のIRとがATR法で一致したことをもって、上記模擬品を前提とした定量分析を行って、A/B比が1から3の範囲内であると主張・立証する。

    イ しかしながら、原告の立証は、いずれも隠蔽層という均一性のないものにATR法を用いるものであり、まずその点に問題があることは、前記(2)のとおりである。原告は、模擬品を標準物質として用いて2点検量線を作成しているが、標準物質及び本件被告製品についても、同様に均一性の問題があるから、このような検量線を用いて定量的に試料を測定することはできないし、IRチャートの測定箇所によって変わってくる可能性も否定することができない。

    ウ 上記(b-2)について
    また、模擬品のIRと本件被告製品のIRとは、酸(1700cm-1)、カゼイン(1660cm-1)のピークが一致せず、必ずしも全部が一致しているとまではいえないものである。さらに、模擬品に配合されたSBR(ニポールLX407F8Bとは異なるSBR)は、被告が購入した事実も認められず、模擬品を本件被告製品と同視することは適切ではない。

    エ 上記(b-1)について
    薬品を同一の割合で配合しても、隠蔽層における分布が均一とはいえないものである。よって、本件被告製品のIRと加工管理表記載の薬品配合割合により調製されたハンドコート試料のIRとが一致しなかったことから直ちに、被告が加工管理表記載のとおりの配合をしていないということにはならない。
    また、被告は、加工管理表および調薬ノートを、一部黒塗りして提出し、その後、SBRが「ニポールLX407F8B」である点について黒塗りすることなく提出し直した。これらの書証に記載された薬品配合割合は、被告が、本件訴訟に先だって提起した被告製品についての差止請求権不存在確認事件(東京地裁平成19年(ワ)第19588号)の訴状において明らかにしていた隠蔽層の塗布液の配合割合と合致するものである。そして、上記加工管理表及び調薬ノートの記載は、薬品の納品伝票や請求書類に照らしても、直ちに疑義があるものとはいえない。

    オ 以上のとおり、加工管理表記載の薬品配合割合そのものではなく、これにSBRとカゼインを加えた模擬品をもって本件被告製品と同視することは、相当とはいえない。

  4. 乙53物件は標準物質として適切か
    ア 原告の分析方法
    原告は、(ア)ロ号事件において開示されたロ号処方、原告保管乙53物件のATR法によるFT-IR分析等から、原告保管乙53物件の隠蔽層を形成する配合薬品を特定し、(イ)特定した配合薬品を用い、それらの成分量を変化させたハンドコート試料(試料11-①~⑦)を調製して検量線を作成し、(ウ)未知試料につき、ATR法によりFT-IR分析を行って吸光度比を求め、(エ)これを上記検量線に当てはめ、対応する成分量を読み取り、これを原告保管乙53物件または裁判所保管乙53物件を標準物質として補正し、A/B比を算出した。原告の主張する定量方法は、前提として、試料11-①~⑦、原告保管乙53物件および裁判所保管乙53物件が標準物質として妥当なものでなければならないため、これらが標準物質として妥当か否かを検討する。

    イ 試料11-①~⑦について
    原告は検量線を用いて隠蔽層の各成分の定量を行うが、SBRの定量においては、ブタジエン基に起因する吸光度比(967cm-1/907cm-1、以下単に「吸光度比」ともいう。)がその指標となるため、検量線作成に用いる試料は、本件被告製品におけるSBRと、少なくともブタジエン含有量が同一である必要がある。
    原告は、当初、本件被告製品の隠蔽層に用いられているSBRが不明であったため、ロ号物件で用いられているSBRのブタジエン含有量を特定した上で、検量線を作成した。上記検量線作成用の試料に使用されたSBRは、A社製のA-5820(ブタジエン含有量は35%)であり、実際に本件被告製品の隠蔽層に用いられているZ社製のニポールLX407FB(ブタジエン含有量は40%)よりも、ブタジエン含有量が少ない。ブタジエン含有量が少ないSBRを用いて検量線を作成した場合、測定結果のSBR量は実際のSBR量よりも多い含有量となる結果、B成分が多く算定され、A/B比は本来よりも小さい値となる。
    このように、本件被告製品のSBRとは異なるブタジエン含有量を有するSBRを用いて作成された検量線では本件被告製品の本来のSBR量を導き出すことはできないから、かかる検量線に基づく定量結果によってA/B比を立証することはできない。

    ウ 原告保管乙53物件及び裁判所保管乙53物件
    平成21年1月27日及び同年2月17日の進行協議期日において行われた立会実験の結果、原告保管乙53物件の吸光度比や裁判所保管乙53物件の吸光度比が、ロ号物件の薬品配合割合による塗布液を塗布したハンドコート試料の吸光度比よりも低いこと、隠蔽層のブタジエン/スチレン比にバラつきがあることが認められる。原告代表者自身、隠蔽層の塗布液の配合内容が同一であっても、内職人が組み立てる時期によって、ブタジエン基に起因する吸光度比に約0.1もの差異が生じることを認めている。
    このように、ロ号物件は、同一製品間でもバラつきがあるにもかかわらず、これを考慮することなく、原告保管乙53物件を標準物質として用いた定量法によっては、A/B比は正確には判断できないものである。
    以上のとおり、乙53物件は、標準物質として適切とはいえない。

  5. T社設備による実機生産品(模擬品)に関する原告の主張について
    原告の主張は、T社が有する被告の設備とほぼ同一の設備を使用し、同様の塗工条件において配合薬品及び配合割合が同一の塗布液を用いることにより本件被告製品と実質的に同一の製品を実機生産することができることを前提とする。
    しかし、T社の設備は被告の設備とは同一ではないから、乾燥条件が同一であるということはできず、本件被告製品の製造工程における乾燥条件と異なる乾燥条件において実機生産された製品の隠蔽層が、本件被告製品の隠蔽層と同一の物性を有するか否かは定かではない。乾燥条件が異なる場合には、隠蔽層のブタジエン基に起因する吸光度比が異なる可能性を否定することはできず、T社の設備により本件被告製品と実質的に同一の製品を実機生産することができると認めることはできない。
    したがって、原告の主張は、前提において理由がなく採用することができない。

  6. ローペイク粒子の成膜化について
    原告は、本件被告製品は、A成分であるローペイク粒子がそのガラス転移温度以上の乾燥温度で加熱されることにより、一部が成膜化してB成分である「成膜性を有する水性ポリマー」に変化することから、A/B比は隠蔽層用塗布液の配合薬品の固形分量から求めた値よりも小さくなり、「1から3の範囲」に収束すると主張する。
    しかし、仮にA成分の一部が成膜化した場合、いまだ成膜化していない残りの部分も既に成膜化した部分と同一の物質である以上、当該加熱温度において同様に成膜性を有することに変わりはなく、A成分のすべてが成膜性を有することになり、B成分にも該当することになる(B成分は「中空孔ポリマー」を除外するものではない。)。そうすると、原告が主張するようにローペイク粒子の一部が成膜化した場合、ローペイク粒子のすべてが成膜性を有しB成分に該当することになるから、中空孔ポリマーとは異なるB成分が存在する本件被告製品においては、A/B比は必ず1よりも小さくなり、構成要件cを充足することはない。
    そもそも、本件明細書には、A成分がそのガラス転移温度以上の乾燥温度で加熱されることにより一部が成膜化してB成分に変化することについては記載も示唆もなく、成膜化したA成分がB成分に変化することは想定していないものというべきである。原告の上記主張は、本件明細書の記載に基づかないものであり、採用することができない。

  7. 以上のとおり、本件被告製品が本件特許発明の構成要件cを充足すると認めることはできない。


3.結論


以上の次第であるから、原告の請求・控訴は棄却されるべきものである。
(本事件は、原告により上告及び上告受理申立てがなされたが、棄却及び不受理決定がなされた。)
2011年10月7日
エスエス国際特許事務所
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