第1 事案の概要
1.特許庁における手続の経緯
被告は,平成4年5月28日を出願日(以下「本件出願日」という。)とし,名称を「ピリミジン誘導体」とする発明について特許出願をし,平成9年5月16日,設定登録がされた(特許第2648897号。以下,この特許を「本件特許」という。)。
原告Xは,平成27年3月31日,当時の本件特許の請求項1~5及び7~12について,特許無効審判を請求した(無効2015-800095号。以下「本件審判」という。)。被告は,平成27年8月3日付け訂正請求書により,特許請求の範囲の訂正を含む訂正を請求した(請求項3,4,7及び8を削除し,請求項13~17を加えることにより,訂正後の請求項の数を13とするもの。)。
特許庁は,平成28年7月5日,「本件審判の請求は,成り立たない。」との審決をし,その謄本は,同月14日,原告らに送達された。なお,特許庁は,別件審判(無効2014-800022号)の審決の確定によって,被告の平成26年6月30日付け訂正請求書による特許請求の範囲の訂正を含む訂正(以下「本件訂正」という。)後の特許請求の範囲及び明細書により特許権の設定の登録がされたものとみなされたため,本件訂正と同内容の前記平成27年8月3日付け訂正請求書による訂正によって,何ら訂正がされていないことになるから,前記平成27年8月3日付け訂正請求書による訂正は,特許法134条の2第1項各号に掲げるいずれの事項を目的とするものとも認められないとして,認めず,請求の趣旨は,本件訂正後の請求項1,2,5,9~12に係る特許は無効にするというものであり,請求人がした本件訂正後の請求項13,15~17に係る特許を無効にするとの補正は,許可しないとして,本件訂正後の請求項1,2,5,9~12と明細書について判断を行った。
2.特許請求の範囲の記載
本件訂正後の本件特許の請求項1,2,5,9~12の発明に係る特許請求の範囲の記載は,以下のとおりである(以下,本件訂正後の本件特許の請求項1,2,5,9~12の発明を,請求項に対応して,「本件発明1」などと呼称し,本件発明1,2,5,9~12を総称して「本件発明」ともいう。)
【請求項1】(本件発明1)
式(I):
(式中,R1は低級アルキル;R2はハロゲンにより置換されたフェニル;R3は低級アルキル;R4は水素またはヘミカルシウム塩を形成するカルシウムイオン;Xはアルキルスルホニル基により置換されたイミノ基;破線は2重結合の有無を,それぞれ表す。)
で示される化合物またはその閉環ラクトン体である化合物。
(以下略)
第2 裁判所の判断
1.本案前の抗弁について
- 本件審判請求が行われたのは平成27年3月31日であるから,審判請求に関しては同日当時の特許法(平成26年法律第36号による改正前の特許法)が適用されるところ,当時の特許法123条2項は,「特許無効審判は,何人も請求することができる」として,利害関係の存否にかかわらず,特許無効審判請求をすることができる旨を規定していた。
このような規定が置かれた趣旨は,特許権が独占権であり,何人に対しても特許権者の許諾なく特許権に係る技術を使用することを禁ずるものであるところから,誤って登録された特許を無効にすることは,全ての人の利益となる公益的な行為であるという性格を有することに鑑み,その請求権者を,当該特許を無効にすることについて私的な利害関係を有している者に限定せず,広く一般人に広げたところにあると解される。
そして,特許無効審判請求は,当該特許権の存続期間満了後も行うことができるのであるから(特許法123条3項),特許権の存続期間が満了したからといって,特許無効審判請求を行う利益,したがって,特許無効審判請求を不成立とした審決に対する取消しの訴えの利益が消滅するものではないことも明らかである。
・・・もっとも,特許権の存続期間が満了し,かつ,特許権の存続期間中にされた行為について,何人に対しても,損害賠償又は不当利得返還の請求が行われたり,刑事罰が科されたりする可能性が全くなくなったと認められる特段の事情が存する場合,例えば,特許権の存続期間が満了してから既に20年が経過した場合等には,もはや当該特許権の存在によって不利益を受けるおそれがある者が全くいなくなったことになるから,特許を無効にすることは意味がないものというべきである。
したがって,このような場合には,特許無効審判請求を不成立とした審決に対する取消しの訴えの利益も失われるものと解される。
以上によると,平成26年法律第36号による改正前の特許法の下において,特許無効審判請求を不成立とした審決に対する取消しの訴えの利益は,特許権消滅後であっても,特許権の存続期間中にされた行為について,何人に対しても,損害賠償又は不当利得返還の請求が行われたり,刑事罰が科されたりする可能性が全くなくなったと認められる特段の事情がない限り,失われることはない。
以上を踏まえて本件を検討してみると,本件において上記のような特段の事情が存するとは認められないから,本件訴訟の訴えの利益は失われていない。 - なお,平成26年法律第36号による改正によって,特許無効審判は,「利害関係人」のみが行うことができるものとされ,代わりに,「何人も」行うことができるところの特許異議申立制度が導入されたことにより,現在においては,特許無効審判請求をすることができるのは,特許を無効にすることについて私的な利害関係を有する者のみに限定されたものと解さざるを得ない。
しかし,特許権侵害を問題にされる可能性が少しでも残っている限り,そのような問題を提起されるおそれのある者は,当該特許を無効にすることについて私的な利害関係を有し,特許無効審判請求を行う利益(したがって,特許無効審判請求を不成立とした審決に対する取消しの訴えの利益)を有することは明らかであるから,訴えの利益が消滅したというためには,客観的に見て,原告に対し特許権侵害を問題にされる可能性が全くなくなったと認められることが必要であり,特許権の存続期間が満了し,かつ,特許権の存続期間中にされた行為について,原告に対し,損害賠償又は不当利得返還の請求が行われたり,刑事罰が科されたりする可能性が全くなくなったと認められる特段の事情が存することが必要であると解すべきである。
2.取消事由1について
- 進歩性の判断について
特許法29条1項は,「産業上利用することができる発明をした者は,次に掲げる発明を除き,その発明について特許を受けることができる。」と定め,同項3号として,「特許出願前に日本国内又は外国において」「頒布された刊行物に記載された発明」を挙げている。同条2項は,特許出願前に当業者が同条1項各号に定める発明に基づいて容易に発明をすることができたときは,その発明については,特許を受けることができない旨を規定し,いわゆる進歩性を有していない発明は特許を受けることができないことを定めている。
上記進歩性に係る要件が認められるかどうかは,特許請求の範囲に基づいて特許出願に係る発明(以下「本願発明」という。)を認定した上で,同条1項各号所定の発明と対比し,一致する点及び相違する点を認定し,相違する点が存する場合には,当業者が,出願時(又は優先権主張日)の技術水準に基づいて,当該相違点に対応する本願発明を容易に想到することができたかどうかを判断することとなる。
このような進歩性の判断に際し,本願発明と対比すべき同条1項各号所定の発明(以下「主引用発明」といい,後記「副引用発明」と併せて「引用発明」という。)は,通常,本願発明と技術分野が関連し,当該技術分野における当業者が検討対象とする範囲内のものから選択されるところ,同条1項3号の「刊行物に記載された発明」については,当業者が,出願時の技術水準に基づいて本願発明を容易に発明をすることができたかどうかを判断する基礎となるべきものであるから,当該刊行物の記載から抽出し得る具体的な技術的思想でなければならない。そして,当該刊行物に化合物が一般式の形式で記載され,当該一般式が膨大な数の選択肢を有する場合には,当業者は,特定の選択肢に係る具体的な技術的思想を積極的あるいは優先的に選択すべき事情がない限り,当該刊行物の記載から当該特定の選択肢に係る具体的な技術的思想を抽出することはできない。
したがって,引用発明として主張された発明が「刊行物に記載された発明」であって,当該刊行物に化合物が一般式の形式で記載され,当該一般式が膨大な数の選択肢を有する場合には,特定の選択肢に係る技術的思想を積極的あるいは優先的に選択すべき事情がない限り,当該特定の選択肢に係る具体的な技術的思想を抽出することはできず,これを引用発明と認定することはできないと認めるのが相当である。
この理は,本願発明と主引用発明との間の相違点に対応する他の同条1項3号所定の「刊行物に記載された発明」(以下「副引用発明」という。)があり,主引用発明に副引用発明を適用することにより本願発明を容易に発明をすることができたかどうかを判断する場合において,刊行物から副引用発明を認定するときも,同様である。
そして,上記のとおり,主引用発明に副引用発明を適用することにより本願発明を容易に発明をすることができたかどうかを判断する場合には,①主引用発明又は副引用発明の内容中の示唆,技術分野の関連性,課題や作用・機能の共通性等を総合的に考慮して,主引用発明に副引用発明を適用して本願発明に至る動機付けがあるかどうかを判断するとともに,②適用を阻害する要因の有無,予測できない顕著な効果の有無等を併せ考慮して判断することとなる。特許無効審判の審決に対する取消訴訟においては,上記①については,特許の無効を主張する者(特許拒絶査定不服審判の審決に対する取消訴訟及び特許異議の申立てに係る取消決定に対する取消訴訟においては,特許庁長官)が,上記②については,特許権者(特許拒絶査定不服審判の審決に対する取消訴訟においては,特許出願人)が,それぞれそれらがあることを基礎付ける事実を主張,立証する必要があるものということができる。 - 甲1発明について
甲1(特表平3-501613号公報)の記載内容によると,甲1発明は,「
(M=Na)の化合物」であると認められる。 - 主引用発明の選択について
本件発明は,・・・アテローム性動脈硬化症の治療に有効な,HMG-CoA還元酵素阻害剤に関するものであり,甲1発明も,・・・3-ヒドロキシ-3-メチルグルタリル補酵素A(HMG-CoA)の拮抗阻害剤であって,・・・抗アテローム性動脈硬化剤に関するものであるから,本件発明と技術分野を共通にし,本件発明の属する技術分野の当業者が検討対象とする範囲内のものであるといえる。
また,本件発明1と甲1発明とを対比すると,次の【一致点】記載の点で一致し,この点において,当事者間に争いはなく,近似する構成を有するものであるから,甲1発明は,本件発明の構成と比較し得るものであるといえる。
【一致点】
「式(I)
(式中,R1は低級アルキル;R2はハロゲンにより置換されたフェニル;R3は低級アルキル;破線は2重結合の有無を,それぞれ表す。)
で示される化合物またはその閉環ラクトン体である化合物」である点
そうすると, 甲1発明は,本件発明の進歩性を検討するに当たっての基礎となる,公知の技術的思想といえる。
以上によると,甲1発明は,本件発明についての特許法29条2項の進歩性の判断における主引用発明とすることが不相当であるとは解されない。 - 対比
そこで,本件発明1と甲1発明とを対比すると,前記(3)のとおり・・・【一致点】の点で一致し,次の【相違点】の点で相違する。
【相違点】
(1-ⅰ)
Xが,本件発明1では,アルキルスルホニル基により置換されたイミノ基であるのに対し,甲1発明では,メチル基により置換されたイミノ基である点
(1-ⅱ)
R4が,本件発明1では,水素又はヘミカルシウム塩を形成するカルシウムイオンであるのに対し,甲1発明では,ナトリウム塩を形成するナトリウムイオンである点 - 本件発明1と甲1発明の相違点の判断
ア 相違点(1-ⅰ)の判断
- 原告らは,相違点(1-ⅰ)につき,甲1発明に甲2発明を組み合わせること,具体的には,甲1発明の化合物のピリミジン環の2位のジメチルアミノ基(-N(CH3)2)の二つのメチル基(-CH3)のうちの一方を甲2発明であるアルキルスルホニル基(-SO2R’(R’はアルキル基))に置き換えること,すなわち,甲1発明の化合物のピリミジン環の2位の「ジメチルアミノ基」を「-N(CH3)(SO2R’)」に置き換えることにより,本件発明1に係る構成を容易に想到することができる旨主張している。
そこで,甲2発明について検討する。
(イ)甲2(特開平1-261377公報)には,一般式(I)
で示される化合物が記載されており,前記化合物は,ピリミジン環を有し,そのピリミジン環の2,4,6位に置換基を有するものであって,HMG-CoA還元酵素(3-ヒドロキシ-3-メチル-グルタリル補酵素A還元酵素)において良好な阻害作用を示すものであることが認められる。 - ・・・甲2の一般式(I)で示される化合物は,甲1の一般式Iで示される化合物と同様,HMG-CoA還元酵素阻害剤を提供しようとするものであり,ピリミジン環を有し,そのピリミジン環の2,4,6位に置換基を有する化合物である点で共通し,甲1発明の化合物は,甲2の一般式(I)で示される化合物に包含される。甲2には,甲2の一般式(I)で示される化合物のうちの「殊に好ましい化合物」のピリミジン環の2位の置換基R3の選択肢として「-NR4R5」が記載されるとともに,R4及びR5の選択肢として「メチル基」及び「アルキルスルホニル基」が記載されている。
しかし,甲2に記載された「殊に好ましい化合物」におけるR3の選択肢は,極めて多数であり,その数が,少なくとも2000万通り以上あることにつき,原告らは特に争っていないところ,R3として,「-NR4R5」であってR4及びR5を「メチル」及び「アルキルスルホニル」とすることは,2000万通り以上の選択肢のうちの一つになる。
また,甲2には,「殊に好ましい化合物」だけではなく,「殊に極めて好ましい化合物」が記載されているところ,そのR3の選択肢として「-NR4R5」は記載されていない。
さらに,甲2には,甲2の一般式(I)のXとAが甲1発明と同じ構造を有する化合物の実施例として,実施例8(R3はメチル),実施例15(R3はフェニル)及び実施例23(R3はフェニル)が記載されているところ,R3として「-NR4R5」を選択したものは記載されていない。
そうすると,甲2にアルキルスルホニル基が記載されているとしても,甲2の記載からは,当業者が,甲2の一般式(I)のR3として「-NR4R5」を積極的あるいは優先的に選択すべき事情を見いだすことはできず,「-NR4R5」を選択した上で,更にR4及びR5として「メチル」及び「アルキルスルホニル」を選択すべき事情を見いだすことは困難である。
したがって,甲2から,ピリミジン環の2位の基を「-N(CH3)(SO2R’)」とするという技術的思想を抽出し得ると評価することはできないのであって,甲2には,相違点(1-ⅰ)に係る構成が記載されているとはいえず,甲1発明に甲2発明を組み合わせることにより,本件発明の相違点(1-ⅰ)に係る構成とすることはできない。
イ 小括
そうすると,相違点(1-ⅱ)について検討するまでもなく,当業者が,甲1発明に甲2発明を組み合わせることにより,本件発明1を容易に発明をすることができたとは認められない。
また,本件発明2,5及び9~11の化合物は本件発明1に包含されるものであるところ,本件発明1につき,当業者が容易に発明をすることができたとはいえない以上,本件発明1を更に限定した本件発明2,5及び9~11についても,当業者が容易に発明をすることができたということはできない。
さらに,本件発明12のHMG-CoA還元酵素阻害剤は,本件発明1の化合物を有効成分として含有するHMG-CoA還元酵素阻害剤であるところ,本件発明1につき,当業者が容易に発明をすることができたとはいえない以上,本件発明12についても,当業者が容易に発明をすることができたということはできない。
したがって,本件発明1,2,5及び9~12は,いずれも甲1発明に甲2発明を組み合わせることにより,容易に発明をすることができたとは認められず,原告ら主張の取消事由1は理由がない。 - 原告らは,相違点(1-ⅰ)につき,甲1発明に甲2発明を組み合わせること,具体的には,甲1発明の化合物のピリミジン環の2位のジメチルアミノ基(-N(CH3)2)の二つのメチル基(-CH3)のうちの一方を甲2発明であるアルキルスルホニル基(-SO2R’(R’はアルキル基))に置き換えること,すなわち,甲1発明の化合物のピリミジン環の2位の「ジメチルアミノ基」を「-N(CH3)(SO2R’)」に置き換えることにより,本件発明1に係る構成を容易に想到することができる旨主張している。
第3 結論
以上の次第で,原告らの請求を棄却することとする。
2019年9月20日
エスエス国際特許事務所
エスエス国際特許事務所